プロフィール

石川 亮

(いしかわ りょう)

生年月日 1980年11月15日
血液型 O型
出身地 千葉県船橋市芝山

学歴

栄光幼稚園卒園
船橋市立芝山西小学校卒業
船橋市立芝山中学校卒業
千葉県立八千代高等学校普通科卒業
立教大学法学部国際比較法学科卒業
英国国立マンチェスター大学院修了(留学)
早稲田大学公共経営大学院修了
船橋市議会議員(1期)

資格等

法学士(立教大学)
開発学修士(マンチェスター大学)
公共経営修士(早稲田大学)
プロジェクトマネジメント・スペシャリスト
(日本プロジェクトマネジメント協会)
TOEFL(CBT)257点(TOEIC915点相当)
フランス語検定3級
政策学校「一新塾」32期生
ふなばし市民大学校平成26年度ボランティア入門学科
ビール検定2級

職歴

JICA青年海外協力隊(ケニア)
国連プロジェクトサービス機関(UNOPS)
開発コンサルタント会社アイ・シー・ネット株式会社
外務省(外交官)
1980年 11月15日生まれ
母親に今でも常に言われるのは、私は「本当にわんぱくだった」ということです。毎日、暗くなってもずっと外で遊んでいたり、迎えに来てもなかなか帰ろうとしなかったり、帰らせようとすると大泣きしたり、台風の日には水たまりで泳いでいたり(笑)…など、本当に手がかかったそうです。私に手がかかりすぎて、次男の面倒を見ることができないほどだったと言います(笑)。
 
しかし、そのおかげか、体も心も健康な子になったと思っています。私のパワーの源は、まさにこの時代に作られた賜物だと思っています。私のわがままに嫌と言うほど付き合い、寄り添ってくれた両親に、心から感謝しています。
そんな両親に育ててもらったおかげで、小さい頃からの私の夢は、「将来は人のために働く」ということでした。
1987~1993年 船橋市立芝山西小学校
私のもともとの性格は、「内気で極端な恥ずかしがり屋」です。毎日のように遊んでいた幼馴染を、自分からは直接遊びに誘うことができず、二つ下の弟に毎日頼み込んでは、弟から誘ってもらうようにしていた情けない兄でした…。
 
今でこそ、表面上は、そんなことがないように繕っているので、周りの皆さんからは、そうは見えないと言われますが、もともとの性格は変えられるものではありません。今でもアドリブは苦手ですし、人の前に立つということに抵抗があります。しかし、だからこそ、自分に慢心するということがありません(正確には「慢心できません」)し、事前にしっかりと準備をできる人間になったと思っています。
 
その反面、自分の名前である「亮」の由来となった「三国志」の諸葛亮孔明に強い影響を受け、英雄に憧れるという一面もありました(笑)。

そして、父親と一緒に見た紛争に関するテレビのドキュメンタリー番組から、「なんで世界には、自分と同い年くらいなのに、紛争や飢餓、貧困に苦しんでいる子どもたちがいるのだろう」と、アフリカに関心を持ち始めたのはこの頃のことです。
1993~1996年 船橋市立芝山中学校
内気で恥ずかしがり屋だった私の性格を、少しだけ外向きに、そして積極的なものに変えてくれたのがこの時期です。

野球部に入部し、チームワークの大切さを学ぶとともに、苦楽を共にする大切な仲間を得ました。この仲間たちに背中を押してもらう形で、生徒会長になったことが、その後の自分の人生を変える転機の一つになったと感じています。

担任の恩師に「りょう、やってみない?」と何気なく誘われたことがきっかけでしたが、「こんな自分でもできるのかな?」と迷っていたときに、「りょうならできるよ」とか、「りょうがやるなら自分も一緒にやるよ」などと、私の背中を押してくれたのが仲間たちでした。
私たちの目標は、「全校生徒に、生徒会に興味を持ってもらうこと」。それまで、「がり勉」とか「ダサい」というイメージだった生徒会を、やりがいがあって、カッコ良くて、みんながやりたいと思うような生徒会に変えてやろうというのが、私たちの野望でした。そのために、毎日の生徒会活動をオープンにしたり、目安箱を設置して生徒の意見を聞くようにしたり、生徒会長のスピーチを少しドラマチックにしてみたり、行事を生徒たちと一緒に作っていくようにしたりと、様々な取組を行いました。その成果もあってか、私たちの次の代の生徒会選挙は、芝山中学校史上初の競争選挙となったのでした。
1996~1999年 千葉県立八千代高等学校
中学校時代に大切な仲間を得たのはとても良いことだったのですが、反面、仲間たちがいなければ何もできなくなってしまった私のことを見抜いた恩師から、「りょうは、友だちと一緒じゃないと何もできない」と言われたことから一念発起し、「それならば、知り合いの誰もいない学校に行ってやる!」と思い、隣の市の高校に進学しました。

高校でも、中学に引き続き、生徒会長を務めさせていただきました。写真は、生徒会の顧問の先生方と。

3年生のときに、友人に誘われて何気なく見学に行った早稲田大学。一目惚れして、どうしても早稲田大学の政治経済学部に入りたいと思い、高校卒業時には、同校同学部のみを受験し、あえなく敗戦…。両親に、1年間浪人させてもらい、「三当四落」(3時間睡眠で勉強に打ち込めば合格し、4時間も眠ると落ちる)という言葉通りに、私なりに一生懸命勉強したつもりでした。しかし、結果は再びの敗戦…(泣)。ただ、浪人中はさすがに早稲田の政経だけを受験するほどの大博打を打てなかった私は、他に合格をいただいた大学に進学することになりました。

本当に一生懸命やったのにダメだったという意味で、私にとって初めての挫折の経験でした。しかし、今から考えれば、この挫折の経験は、私の人生にたくさんのポジティヴな影響をもたらしてくれていると思います。
2000~2004年 立教大学法学部国際比較法学科
私は、どうしても入りたかった大学に進学することができず、絶望の淵にありましたが、「いつまでも落ち込んでばかりはいられない。今与えてもらった場所を、自分の力で最高の場所にしてみせる!」と心を切り替えることができました。そして、今までは勉強や部活に打ち込んでいたためにできなかったことを、大学では全部やってやろう!という気持ちで毎日を過ごすように心がけました。結果として、立教大学に進学して良かったと思っています。今では私の愛する母校です。
ゼミは日本政治史を専攻し、サークルではESSという英語サークル、ウィンタースポーツ、サッカーに所属、アルバイトでは塾の講師を経験し、インターンシップでは国会議員の秘書を務めました。しかし、何よりも力を入れた活動が、海外でのボランティア活動でした。2年次にはフィリピンへ植林のボランティア(上の写真)、3年次にはスリランカへ教会建設のボランティア(右の写真)、そして、4年次には、自分で立ち上げた「立教大学国際協力サークル」の後輩たちを連れて、インドネシアへスタディツアーに行きました。行く先々の国々でホームステイを経験し、現地の人たちと仲良くなって、素晴らしい経験をさせてもらいました。この時の経験から、私は卒業後の進路を、「国際協力」の世界にしようと考えるようになったのです。
2004~2006年 青年海外協力隊村落開発普及員としてケニアへ
大学卒業後すぐに、国際協力機構(JICA)が主催する海外でのボランティア事業である「青年海外協力隊」に村落開発普及員という職種で参加し、幼少の頃から関心のあった念願のアフリカ、ケニア共和国へ赴任しました。

私の仕事は、ケニアでも最も貧しい地域の一つである西部地方カカメガ県の農村に入り、現地の人々の現金収入獲得手段を構築する、いわゆる「村おこし事業」を実施するという仕事でした。しかし、大学を卒業したばかりで知識も経験も乏しい私には、なかなかアイデアが思い浮かびませんでした。
 
自分だけで考えることが難しいならば、長年生活をしてきて、この土地を知り尽くした現地の人々と一緒に考えればいいじゃないか!ということで、私が最も力を入れた活動は、現地の人々を集めた集会(ワークショップ)でした。たとえば、昨日は地区の青少年たちと一緒に地域の明るい未来について考える集会であれば、今日は地域の女性グループたちと女性の自立について考える集会、明日は地域の村長グループと地域の問題について考える集会を開くという感じです。私がファシリテーター(議論を促進する役割を果たす人)を務めて、あくまで地域の人たちのアイデアを尊重し、地域に関わる関係者の割りだしからはじめて、地域の問題を分析、それらの解決策を考え、そして将来像を描く「参加型」のワークショップを多数実施しました。その中で、住民のアイデアから生まれた「商品作物(ケール)の栽培と販売事業(上の写真はその収穫の様子です)」、「淡水魚(ティラピア)の養殖事業」、「家畜(牛、ヤギ)の繁殖事業」、「自転車タクシー(地域の交通手段))の操業事業」、そして「地下水をきれいにするための浄化槽設置事業」でした。
これらの事業は、まさに、ワークショップを通して、地域住民の声から生まれ、地域の人たちの手によって実施されたものでした。この時から私は、地域住民一人ひとりの力やアイデアの重要性や、それらを活かしていくことの大切さを学び、「国際協力」の世界における私の専門分野を、一人ひとりの住民と共に地域を良くしていく「参加型開発」にしていくことを決心したのです。
2007年 国連プロジェクトサービス機関(UNOPS)東京事務所インターン
幼少の頃に、アフリカや発展途上国に関心を抱いて以来、私は将来、国際連合(国連)で働いてみたいと強い希望を持つようになっていました。

青年海外協力隊から帰国した後、イギリスの大学院に留学することが決まっていたのですが、それまでの間に、念願の国連機関で働けるならば働きたいと考えて応募したのが、この仕事でした。インターンとは、無給で働く仕事であり、これから一人前になるであろう若者を育てるプログラムだと理解されていることと思います。もちろん、国連にあっても、そのようなシステムであることに変わりはないのですが、国連の少し違うところは、インターンにもそれなりの資格や経歴が求められ、その代り、仕事も一人前として扱ってもらえるというところにありました。

私は、主に南西アジアの国々を担当させていただき、UNOPSが同地域において、日本政府と協力して、今後どのような事業を進めることができるのかについての提言を行いました。そのために、南西アジア地域の現状はもちろん、UNOPSの特性や強みの分析、そして日本政府の同地域に対する支援計画などを詳しく調査しました。最終的に調査報告書をまとめて提出することができたのですが、このときの経験から、私は、物事を深く調査分析し、提言につなげていくためのコンサルティングの基礎を学びました。
2008~2009年 英国国立マンチェスター大学院留学
留学は、子どもの頃から、人生で一度は経験しておきたいと夢見ていたことでした。学部生の頃は、留学できるほどの英語力がなく、また、それをつけようと努力することもできませんでした。

しかし、青年海外協力隊に派遣され、これから国際協力の世界で生きていこうと決意した私にとって、語学力と修士号は必須のものとなりました。ケニアでの2年間では、隊員活動と並行して、英語も猛勉強しました。この時期に日本で出版されていたTOEFL対策用の問題集のほとんど全てを解いたと思います。その成果もあってか、イギリスの大学院に留学するために必要な点数を何とかクリアすることができました。私は、日本生まれの日本育ちです。はっきり言って、入試でも英語は苦手科目でした。もちろん、英語のネイティヴスピーカーになることはできませんし、今でもそんなに上手に英語を使えるとは思っていません。しかし、そんな私でも、勉強をすればある程度できるようになりました。これだけははっきりと言えます。英語は、勉強すれば誰でも必ずできるようになります!やるかやらないかだけです!
そんな偉そうなことを言っておきながら恐縮ですが、留学時代は、とてもとても苦労しました。いくらテストでいい点数を取ったとしても、実践はまったく違うものでした。授業で先生が話していることにはなんとかついていけるものの、クラスメートとのディベートやディスカッションとなると話は別で、まったくついていけなくなりました。クラスメートには、イギリス、アメリカ、カナダなどのネイティヴもいましたが、他のヨーロッパの国々の人、アフリカ人、アジア人、中南米人などもいて、みんなそれぞれ響きの違う英語をしゃべるのです。そして何より、話すスピードが速い!聞き取るだけでも大変なのに、その中で発言するなんて、私にはとてもできないことでした。欧米の世界は結構シビアなもので、話さない人はいないものと思われてしまうのですね。クラスの中にあって、私の存在はないものとなっていきました。

日本では、わりと雄弁なほうで、議論の中にあっても率先して引っ張っていくリーダータイプだと自負していた私の自信は完全に打ち砕かれました。自分は、言葉が変わるだけで何も言えなくなってしまう情けない人間、日本でしか活躍できない井の中の蛙だと思い知らされました。自分自身に対してあんなに悔しい思いをしたことはありませんでした。

しかし、このまま終わるわけにはいかないのです。このまま終わってしまったら成長できないからです。まずは、自分ができることからしっかりやろう!そう決めて、毎日図書館にこもって猛勉強しました。話せないなら、まずは書きもので良い成績を取ってやろうという作戦です。朝8時の開館の15分前から毎日並び、閉館する11時まで、授業以外の時間はずっと図書館の同じ席に座って勉強していました。毎日顔を合わせて仲良くなっていた図書館のスタッフたちが、私が毎日座っている席に、私の名前が書かれたプレートを置いて、「もうこの席はお前の専用席だ!」なんて冗談を言ってくれるくらいでした(笑)。そのかいあってか、レポートや期末テストの成績が上位になってくると、クラスメートたちも私の存在を認知してくれるようになりました。そうなると、私にも少しずつ自信がついてきて、ディスカッションでもディベートの場でも発言できるようになっていきました。

私自身の邪魔をしていたのは、何より私自身だったのです。つまり、「自分はこうあるべきだ」、「こういう存在でなければならない」などという下手なプライドや、「自分の英語の文法が間違っていたらどうしよう」とか「馬鹿だと思われたら恥ずかしい」といったコンプレックスです。私は、この留学を経て、そんなものは何の役にも立たないことを学びました。間違っていたっていいじゃないか、勘違いしていたっていいじゃないか。伝えなければ何も始まらない。この時から、私は、何かこう吹っ切れたと思います。この時から今でも私が心がけているのは、「思い立ったら、一番最初に(みんなより先に)発言する」ということです。
2009~2011年 開発コンサルタント会社 アイ・シー・ネット株式会社
私は、この時期、民間企業で働いたことがないということに負い目を感じていました。というのも、協力隊の時も、留学時代も、ことあるごとに「一度は民間企業で働いてみたほうがいいよ」と言われ続けてきたからです。

国際協力の世界には、国際機関やJICAなどの公的機関や、NGOなどの非営利組織が多い中で、国際協力を専門とする民間企業である開発コンサルタント会社は、まさに私の希望と合致していました。

開発コンサルタントとは、専門知識と経験を背景に、途上国の現場で実際に様々な調査や具体的なプロジェクトを実施し、援助プランを実現していく仕事です。

私は、アイ・シー・ネットという開発コンサルタント会社に入社しました。主な仕事は、JICAの技術協力プロジェクトである「フィリピン国ムスリム・ミンダナオ自治区(ARMM)人材育成プロジェクト」の専門家として、ARMM政府職員の能力向上を目指した研修を実施していました。ミンダナオ自治区は、キリスト教国であるフィリピンにあって、イスラム教を信仰する独特な地域であり、同国からの独立を求めて内戦が続き、テロが絶えない地域でした。私にとっては、初めての紛争地域での仕事であり、団員や自分自身を含めた身の安全を最優先に考えながらの厳しい業務ではありましたが、こういう地域こそ、外国からの支援を本当に必要としている場所であり、素晴らしい現地スタッフたち(上の写真は、彼らとの写真)に恵まれ、とてもやりがいのある業務となりました。
日本国内での業務としては、「参加型開発」(ケニア協力隊の時に実施していたような、現地の人々のアイデアを活かしたワークショップを実施してプロジェクトを立案・実施する)の専門家として、自社研修やJICA研修、大学の授業で講師を務めていました。

この3年間の経験から、民間企業での社会人経験を積むと同時に、コンサルタントとして、物事を深く調査・分析し、付加価値を提案するという能力を鍛えることができました。
2011~2012年 外務省 在スーダン日本国大使館 二等書記官(ローカルランク)
これまでは、援助の最前線やプロジェクトの現場で仕事をしてきたのですが、次は現場から少し離れて、それらのプロジェクトをより大きな枠組みで考えたり、日本政府としての援助政策の策定というより広い視点から途上国支援に携わりたいと考え、外交官の道を選びました。

派遣された国は、アフリカ大陸北部に位置するスーダン。この国は、ダルフール紛争などに代表される紛争国であり、アメリカから経済制裁を受けている国でした。しかも、同国の南部が、長い内戦を経て、まさに独立しようとしている激動の時代でした。

私は、在スーダン日本国大使館にて、主に開発協力と経済分野を担当し、まさに我が国がスーダンに対してどのように支援を行っていくべきかの政策の策定に関わるとともに、同国の経済状況を調査・分析する仕事をしていました。
同時に、スーダン政府の要人や他国の外交官、そして国際機関の職員などとのパイプ作りや情報収集活動など、外交官としての職務のイロハを学びました。
2012~2013年 外務省 在南スーダン日本政府連絡事務所(現大使館) 二等書記官(ローカルランク)
2011年7月9日に南スーダンという国がが誕生しました。日本政府は、まさに同日、南スーダン政府と国交を結び、大使館を設置する準備に入りました。私は、この準備のために南スーダンに派遣される最初の常駐外交官7人の中の1人に選ばれました。業務はスーダン時代と同じく、開発協力と経済分野を担当しました。
南スーダンは、長い内戦を経て、イスラム教国スーダンから独立したキリスト教国ということで、国際社会からの注目度は高く、さらに、独立したばかりということでほとんど開発されていない状況だったということもあり、さながら欧米諸国や国際機関からの援助のメッカとなっていました。欧米諸国や国際機関は、競い合うように、南スーダンに対する援助方針や開発計画を策定し、国際会議を連日のように開催するなど、主導権争いを繰り広げていました。我が国も、南スーダンの開発に資するべく、同国の開発計画と日本政府にできる援助分野とを勘案し、開発援助方針を策定することになりました。私は、外務本省やJICAと協力し、南スーダン政府の理解を得ると同時に、他の援助国とも調整しながら、援助方針の策定に従事しました。
2013~2014年 早稲田大学公共経営大学院
夢はいつかは叶うものなのですね!高校生の頃にあれほど憧れていて叶わなかった早稲田大学への入学が、30歳を過ぎてから実現するとは、あの頃にはまったく想像できませんでした。

しかも、今回は明確な意思を持っての入学です。外国にいればいるほど募った日本や故郷(船橋)への想い。何か自分が生まれ育った地域のために働きたい、貢献したいと考えたときに、真っ先に思い浮かんだ答えが、地元の政治家になることでした。時は奇しくも地方分権・自治の時代。これからの地方政治は、考えなければならないこと、やらなければならないことが猛烈に増えて責任が増す反面、やる気のある人間にとっては、とてもやりがいがあってチャレンジングな仕事だと思いました。

しかし、私にはこれまでに政治の経験はありませんでした。地方議員にも即戦力が求められている時代。私は、議員になる前に、地方政治や行政のことをしっかりと勉強しておく必要があると考えて、地方政治研究の先進大学である早稲田大学に進学することを決めました。

実際の授業では、元三重県知事の北川正恭教授の指導(ゼミ)を受け、開発行政学の江上能義教授、地方自治論の小原隆治教授、元財務相事務次官の津田廣喜教授、現会計検査院検査官の小林麻里教授など、地方政治や行政の専門家と親交を深めることができました。

修士論文のタイトルは、「ソーシャル・キャピタルの構築から促進する参加と協働-千葉県船橋市における実践-」であり、人と人とのつながりの構築から市民活動やボランティアの輪を広げていき、一人ひとりの市民に生きがいや友人、そして仕事(役割)のある幸せな船橋を作っていくための構想を描きました。

私は、これからの地方議員というのは、これまでのように行政(役所)の言うことを鵜呑みにしたり、ただ闇雲に反対するだけではなく、行政の政策に対し、是々非々で冷静に判断し、必要であれば別の提案をすることができる(これを政策立案といいます)能力を身につけていることが必須だと考えています。まさに、この政策立案能力を身につけるために、私は大学院で公共政策について研究してきました。そのことにより、官僚主導から政治主導に変わり、皆さんの意見が直接反映される市政の仕組みづくりを、まずは皆さんと共にさせていただきたいと考えています。

全力で働いて、皆様のご期待に応えます!